九州大学特任教授として、SIA(Soaked in Asia)[アジアに浸る]、というプロジェクトを、五年がかりで行い、十カ国を訪問したのを、昨日のことのように思い出す。あれからもう、十年の月日が経ったのだ。
政治や経済などの大きな情報ではなく、文学という個人の心の情報交流に絞ったこのプロジェクトは、様々な事情から半年に一カ国を訪問することになり、途方もなく忙しかったけれど、作家人生における大きな記念碑となった。
訪問する国の作家を一人選び、短編作品を日本語に翻訳し文芸誌に載せる。その作家との対談を映像にして地元のテレビで放映し、またネットでもアップした。加えて私がその国で感化されたものを元に短編創作し、また社会状況を私の撮った写真入りで、総合雑誌にカラーページで発表した。
こうした果実として三冊の本が出来たし、タイを訪問したあと創作した「トモスイ」が川端康成文学賞を頂くという余録まで付いて来た。
思い起こせば、訪問国で感じたテーマが今もキリリと立ち上がってくる。モンゴルは草原の国で、草丈に応じて家畜が育ち、家畜の生育に応じて人間も生きて行く、つまり草本位制。ところが近年、地球温暖化で砂漠化が進み草が育たなくなった。悲痛な声が耳に残っている。韓国は恨(はん)の国で、繁栄の底に流れる情念の深さに心が痛んだ。インドは大地から湧き出るような新しい命と、カーストやジャーテイという社会の縛りが、精神の奥まで支配している不思議。最先端技術の飛躍と、人々の意識の遅れが、あまりにアンバランスだった。ベトナムはまだ、ベトナム戦争の後遺症を抱えていた。バイクが疾走する街に中年男女の姿が少なかった。若者の国と言えば美しいが、ベトナム戦争で犠牲となった世代の人口が極端に少ないのだ。フィリピンは七千からの島に、多民族、多言語、多宗教が息づいていて、私達日本人が考える統一国家とは別の問題を抱えていた。台湾の離島の、少数民族タオ族の暮らしの知恵にも圧倒された。彼らの生活感覚は、現在の世界の問題解決に繋がる答えを、提示していた。
アジアは面白い。多様で日々変化している。
私は十カ国を訪問し、何を学んだのだろう。
アジア十カ国について知ったことはごくわずかだ。何も知らないに等しい。けれどはっきり見えてきたのは、日本についてだった。日本はアジアの他の国に較べて、あらゆる意味で「水」の国。日本のように良質な水に恵まれた国は他に無く、地形からくる水害や治水問題も特異な国。このことは日々の暮らしに影響するだけでなく、実は数千年にわたり、日本人の精神を形づくってきた。
アジアを知ることは、アジアの中の日本を知ることでもある。私達日本人は、アジアを知ることなく、自国を知ることなどできないのだと思います。