私が高校生の頃は、9.11が勃発し、自分の中で欧米への憧れが消え、「今まで正しいと思っていたものが何かおかしいのではないか」と考え始めた時期でした。その代わり、目が向くようになったのが開発途上国でした。また、社会の中で脆弱な立場にある「難民」という存在についてもっと知りたいと思い始めていました。東京女子大の文理学部社会学科に入学した後は、開発経済学のゼミに入って開発政策について学び、また、日韓学生交流で韓国の学生と歴史問題について議論したり、バングラデシュへのスタディ・ツアーに参加したりしていました。バングラデシュでは子どもたちの笑顔が印象的だった半面、抜け出すのが困難な貧困のサイクルがあることに憤りを強く覚えました。そんな中、東女の先輩が駐在員をしていたこともありますが、現地の言葉を話し、草の根で現地の人々を支える「NGOの駐在員」という仕事に強く興味を持ちました。
卒業後、イギリスの大学院で開発学と紛争の起こる要因を勉強しましたが、開発途上国支援の方法や内容においても、途上国側の視点が不足していることが少なくなく、大きな疑問を持ちました。その後、民間企業で勤務経験を積んだのち、会社を辞めたタイミングでパレスチナを初めて訪問しました。そこで占領下に置かれたパレスチナ人との交流を通して、どんなにイスラエル当局から暴力を受け、土地を奪われても、自分たちの権利を非暴力のデモで闘って守ろうとする人々がいること、そして常にどんな場面でも笑顔とユーモアたっぷりに生きるパレスチナ人の姿にすっかり魅了されていました。「私たちはこうやって生きているけど、あなたはどう生きたいの?」と常に問われている気がして、自分をごまかしては向きあえない、とも感じました。自分の生き方を見つめ直す機会でもあり、この人たちに寄り添って活動していきたい、そう強く思い、縁を感じずにはいられませんでした。
帰国後すぐにパレスチナとの仕事に就くのは難しかったので、まずはアラブ人との仕事を経験するため、アラブ首長国連邦のアブダビ首長国と日本との教育・投資関連分野における関係強化に取り組むプロジェクトに従事しました。そこでイスラム世界、そしてアラブ人との仕事の仕方を学び、2016年に国際協力NGO、日本国際ボランティアセンターの職員となったのち、2017年から5年間、現地駐在員としてエルサレムに住みながらパレスチナ支援のプロジェクトに関わりました。国際協力の仕事では多数の国を数年ごとに渡り歩く働き方もありますが、私は「地域の専門家」として一つの地域に長く留まり、深く関わりたいと思うようになりました。
駐在員時代は、封鎖下のガザ地区で地域の女性たちの力を活かしながら子どもの栄養改善を行う事業、軍事占領下の東エルサレムでは地域での活動を通じて、パレスチナの若者のレジリエンスを向上させ、問題の解決手段として暴力に向かわないようにする事業、地域保健を改善する事業、女性の社会的・経済的な自立を職業訓練と女性の権利に関する研修を通じて支援する事業、などを調整員として担当しました。地域ぐるみで子どもたちを守り、自分の子どもか否かに関わらず育てるパレスチナ人の在り方は、今の日本が失いかけている姿です。人は助けあわないと生きていけない環境では、コミュニティが強くなることも学びました。また、一族の絆を大事にし、友人や家族との時間を確保している彼らは、日本人よりも豊かなのではと思う瞬間も多々ありました。私が滞在した時期は、トランプ元大統領による「エルサレムはイスラエルの首都」発言、ヨルダン川西岸地区でのイスラエル人による入植の急速な進行、イスラエル当局によるパレスチナ人家屋の破壊と収奪、ガザにおける戦争を含む大きな危機、などが起きていました。たえず暮らしが脅かされ将来の展望がないパレスチナ人に対して、支援できることが限られる上、政治的な解決に頼らざるをえない、というもどかしさもあります。
歴史をたどるとアメリカ、イスラエル、イギリスだけでなく、国際社会も構造的暴力に加担していたことが分かります。現在は、コンサルタントとして、パレスチナ難民に対する支援事業にNGO時代とは異なる手法で関わっていますが、何世代にもわたって積み重なってきたパレスチナを巡る問題の解決は、もちろん容易ではありません。関わる者は、非常に繊細な配慮が必要な上、気の遠くなるプロセスと時間を要します。それでも、戦争が続いても、欧米諸国が味方をしなくても、現地の人々に寄り添い続け、届きにくい声を届け、せめて私自身が困難な状況に置かれた人たちの明るい未来を諦めないでいる、ということが大切だと感じます。それが「助けあいの心」や、「人間としての尊厳を守るために立ち向かう」という生き方を教えてくれた、パレスチナとパレスチナ人に対して恩返しをする唯一の手段ではないかと最近は考えています。