環太平洋という枠組みからみえてくるもの

酒井 一臣       

国際社会学科国際関係専攻(教授)

「大正時代の高校・中学用地図帳より 現在の世界地図と見くらべてみてください」

 環太平洋ということばを聞いて、みなさんはどんなことを想像しますか?太平洋をめぐって、カナダ・アメリカ合衆国、中南米の太平洋沿岸諸国、南太平洋島嶼の国々、オセアニア諸国、東南アジア諸国、日本を含む東アジア諸国、ロシアなどが環太平洋です。

 環太平洋というのは、広大な領域で、多くの可能性をもっています。世界史的にみると、15世紀にアメリカ大陸に西洋人が到達し、そこの資源を利用して西洋諸国が発展していったため、大西洋をめぐる地域が注目されつづけました。これを変えるきっかけをつくったのは、アメリカ合衆国と日本でした。明治維新で日本が国際社会で活躍をはじめたころ、アメリカは太平洋を新たな活動領域として注目していました。幕末にペリーが日本に来航したのは、アメリカが太平洋に期待をいだいていたからです。

 私は、明治以降の日本が、アジア太平洋地域とどのように関わってきたのかというテーマで研究をしています。江戸時代までの日本は米作りが中心でした。明治になって、富国強兵をめざして、工業や貿易をさかんにおこなうようになりました。太平洋に目を向けることは、世界に羽ばたくことでもありました。第一次世界大戦後に、日本は現在のミクロネシア諸島の一部を治めることになりました。その結果、これまで日本のことを重視していなかったオーストラリアが日本に関心を強めました。

 大学生の留学先として大人気のオーストラリアですが、かつては厳しい有色人種排除政策(白豪主義)をとっていました。よって、「日本人お断り」だったわけです。それでもオーストラリアにとって日本の南太平洋進出は気になる。太平洋に進出したい日本、「日本人お断り」のオーストラリア。どんなせめぎ合いがあったのだろうと気になり、日豪関係を調べました。その結果、奇妙な構図が浮かび上がりました。日本人は西洋人に近づこうと努力していました。その努力が成果をだすほど、恐ろしい力をもった存在として、ますますオーストラリアの日本排除が強くなっていったのです。いくら努力しても結局排除される。この不幸な構図は、日本が太平洋戦争をおこなう一因になりました。

 太平洋戦争後、オーストラリアはアジア太平洋の国として生きていく決心をして、白豪主義をやめて、多文化主義政策に転換しました。

 私は英語が下手です。アメリカに行ったとき資料館の窓口でとまどっていると、列の後ろに回って暇なときもう1回来てくれといわれました。ところが、オーストラリアの窓口の人は日本語ができる人を必死で(でもニコニコして)探してくれました。その間待たされている後ろの人も、全くいやな顔をしませんでした。結局、中国語ができる人が来て、中国語と日本語は通じないのかと驚かれたという「オチ」がつくのですが。これが多文化主義なのだと実感しました。

 現在、日本は経済力で周辺国に追い抜かれそうです。少子高齢化も深刻です。これからの日本は、今まで以上に環太平洋の人々と共生する必要にせまられます。太平洋(Pacific ocean)が文字通り「平和の海」であることは、私たちにとってとても重要なことです。環太平洋地域は、これからますます膨大な人口と経済力をにないます。2024年の世界のGDPランキング20位以内の9カ国が含まれます。環太平洋で、私たちが協力と共生を実現するために何ができるのでしょうか。日本には、平和の海を戦争の海にしてしまった不幸な過去があります。過去から学ぶのは、成功例だけではありません。失敗例も大事な教訓になります。みなさんは、日本社会にもっと外国の人が増えたとき、その人たちの利益のためにどこまで我慢ができると思いますか?日本語がうまくできない人が窓口で困っていて、待たされたとき笑顔になれますか?口で言うのは簡単ですが、大変難しい。

 環太平洋の歴史は、摩擦と対立の歴史でした。それでも、人びとは太平洋を舞台に活動しつづけてきました。学校の勉強では、環太平洋ということばはあまり出てこないでしょう。

 世界地図を眺めてみてください。太平洋をグルリと見回して、様々な想像をしてみましょう。いろいろな発見や気づきがあるはずです。多文化主義・多文化共生というのはなかなか難しい話題です。しかし、みなさんが世界に対して小さな発見や気づきを積み重ねることが、グローバルな共生社会につながっていくのです。