「敦煌オアシスの研究」

赤木崇敏 

東京女子大学現代教養学部 人文学科歴史文化専攻准教授

 私の専門は、中央アジアのオアシス地域の歴史です。19世紀後半~20世紀前半に、イギリス・フランス・ロシアそして日本などの探検隊が中央アジアを踏査する探検の時代が訪れ、各地の遺跡から古文書や美術品が次々に発見されました。特に著名な遺跡が、現在の中国の西北にあり、世界遺産にも登録されている莫高窟ばっこうくつです。この遺跡は敦煌とんこうというオアシス都市の郊外にある仏教石窟寺院で、多言語で書かれた古文書(敦煌文書ともいいます)や壮麗な仏教壁画など、学術的に価値の高い様々な史料が大量に発見されたことで注目を集めました。これら貴重な史料群は各国の探検隊により世界に紹介され、敦煌学という新たな学問領域を生み出しました。私の研究テーマのひとつは、この古文書や壁画を用いた、敦煌とその周辺地域の社会や文化の解明です。

[敦煌莫高窟の九層楼]

 敦煌は、古来シルクロードの要衝として栄え、これまでにしばしば小説・映画・テレビ番組の題材にもなってきました。『耆旧記ききゅうき』という書物には、敦煌は「華戎の交わる所の一都会」と描写されています。すなわち、華(漢人)と戎(諸民族)とが雑居し交流していた都市でした。このような多様な人びとによって育まれた交流の諸相や、さらには8~10世紀の中央アジアやシルクロードについて、敦煌文書は実に多くの情報を我々にもたらしてくれます。 

 実際に敦煌文書を読み解いてゆくと、10世紀に敦煌王とも呼ばれた現地の支配者(帰義軍きぎぐん節度使)は、シルクロードの交通や交易の維持のために、甘州かんしゅうウイグル王国やコータン王国といった近隣諸国の王家と盛んに婚姻を結び、同盟を結んでいたことが分かります。こうして交通を確保すると、シルクロードを往来する外国使節・商人・巡礼者が足繁く敦煌を訪れ、またインドへ取経に赴く漢人僧や中国を目指すインド・中央アジアの僧侶も石窟参拝のために立ち寄りました。このオアシス都市は多くの人びとで賑わい、彼らがもたらす中国・ペルシア・中央アジア産の珍しい品々で溢れていました。敦煌は、広くユーラシアの東西南北を繋ぐ役割も果たしていたのです。

 大学院生の頃より、敦煌文書のコレクションがあるヨーロッパの諸都市(ロンドン・パリ・サンクトペテルブルク)を度々訪問してきましたが、近年は年末になると敦煌で調査をしています。莫高窟をはじめ、敦煌の周辺にある石窟寺院には、地元の仏教徒や各地から訪れた巡礼者が書きつけた5~14世紀の漢語・古ウイグル語・モンゴル語・チベット語・西夏せいか語などの奉納文や落書き、そして寄進をおこなった諸民族の人物画が残っており、これらも文化交流の足跡を示す重要な史料です。残念ながら昨年はコロナ禍のために調査を取りやめましたが、石窟を訪れるたびに何かしら発見があり、敦煌の調査は毎年の大きな楽しみになっています。