敦煌は、古来シルクロードの要衝として栄え、これまでにしばしば小説・映画・テレビ番組の題材にもなってきました。『耆旧記』という書物には、敦煌は「華戎の交わる所の一都会」と描写されています。すなわち、華(漢人)と戎(諸民族)とが雑居し交流していた都市でした。このような多様な人びとによって育まれた交流の諸相や、さらには8~10世紀の中央アジアやシルクロードについて、敦煌文書は実に多くの情報を我々にもたらしてくれます。
実際に敦煌文書を読み解いてゆくと、10世紀に敦煌王とも呼ばれた現地の支配者(帰義軍節度使)は、シルクロードの交通や交易の維持のために、甘州ウイグル王国やコータン王国といった近隣諸国の王家と盛んに婚姻を結び、同盟を結んでいたことが分かります。こうして交通を確保すると、シルクロードを往来する外国使節・商人・巡礼者が足繁く敦煌を訪れ、またインドへ取経に赴く漢人僧や中国を目指すインド・中央アジアの僧侶も石窟参拝のために立ち寄りました。このオアシス都市は多くの人びとで賑わい、彼らがもたらす中国・ペルシア・中央アジア産の珍しい品々で溢れていました。敦煌は、広くユーラシアの東西南北を繋ぐ役割も果たしていたのです。
大学院生の頃より、敦煌文書のコレクションがあるヨーロッパの諸都市(ロンドン・パリ・サンクトペテルブルク)を度々訪問してきましたが、近年は年末になると敦煌で調査をしています。莫高窟をはじめ、敦煌の周辺にある石窟寺院には、地元の仏教徒や各地から訪れた巡礼者が書きつけた5~14世紀の漢語・古ウイグル語・モンゴル語・チベット語・西夏語などの奉納文や落書き、そして寄進をおこなった諸民族の人物画が残っており、これらも文化交流の足跡を示す重要な史料です。残念ながら昨年はコロナ禍のために調査を取りやめましたが、石窟を訪れるたびに何かしら発見があり、敦煌の調査は毎年の大きな楽しみになっています。