文化大革命の余燼も収まり、中国が国際社会に復帰して間もないころに当たるでしょうか。1985年、私は中国政府研究所機関から招待を受け、中国上海交通大学と上海周辺の研究所を訪問しました。講演の自己紹介で、 私が、“This is not my first visit to China、neither second, but one-point-five-times visit.”と言ったところ、みなさんの顔に“?”が走りました。実は、私は、旧満州奉天市生まれです。終戦の混乱の中、1才の私は母に背負われ日本に引き揚げました。“point-five”の端数はこの時のものです。小学4年生の時、教科書の世界地図に『瀋陽(奉天)』と書かれていることを見つけ興奮しました。『私のアジア』の事始めです。
私の育った能登半島の町は日本海に面する天然の良港でした。1950年代には、ソ連船が北洋材を筏のように曳航して入港していました。港まで出かけ、船室で船員さんと話をしながら(と言っていいか)、チェスをしました。父はシベリアで抑留死していますが、慰霊の旅の空路1時間半は思っていたよりずっと近い距離でした。東アジアの湖のような日本海の向こうにある中国、ロシア、そして韓国と北朝鮮。それらは私に身近な『私のアジア』でした。
1977年、韓国を訪問しました。大学教員となって5年目でした。ソウルから、板門店に立ち寄り、仁川、大田(研究学園都市は建設中でした)、蔚山を経て、釜山まで移動しながら、大学や研究所を訪問しました。1週間の滞在でしたが、それは、教育研究者としての『私のアジア』の事始めとなりました。その後、研究室には韓国や中国からの留学生が続きました。
『私のアジア』は、1995年のインドネシア訪問で、東南アジアに広がりました。2001年、タイ、マレーシアの日系企業で学生のインターンシップを実施するプログラム『国境を超えるエンジニア』を始めました。アジアではまだ技術は“手で触り、感ずる”ことができました。アジアには日本の学生を変える力があることを知りました。
『私のアジア』は、東京女子大学で大きく膨らみました。着任直後、アジアに出かけた学生たちの活き活きとした活動報告は、「アジアには日本の女子学生を変える力がある」と思わせました。また、本学教員のアジアでの活動は、女子高等教育をアジアへと願って建学された当初から脈々と続けられてきたものでした。
これらの点を結んで、学生と教員がそれぞれの『私のアジア』を持ち寄り、協働する広場を目指す『アジア・フォーラム』がスタートしたのです。本学学生がアジアの学生と共に学び、語り、働き、時代を共有できたら、『私のアジア』も第4楽章となります。